旭人物伝

旭人物伝

先達の足跡

〜「あさひ輝いた人々」(平成29年7月発行)より〜
 
Footprints of the pioneers

 歴史に名を刻む、旭ゆかりの人々を紐解きます。郷土を愛した先人のたゆまぬ努力、知恵や才能、先見性が礎となり、今の旭につながっています。
 
These are some of the great people in history who were associated with Asahi. They loved this place, and their endless efforts, wisdom, talent, and foresight have led to the current prosperity of Asahi.

木曽義昌 きそよしまさ(1540〜1595年)

旭の地名に関係する人

 木曽義昌は、天文9(1540)年に木曽義康の長男として生まれ、朝日将軍といわれた木曽義仲から数えて19代目に当たります。元々は木曽谷を拠点とする戦国武将で、小田原の北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、木曽の地から網戸に移されました。
 天正18(1590)年三川村の福蔵寺を屋敷として使用した後、網戸に移り網戸城を建設。城下町の整備、市場を開くなど数々の事業を行ったといわれています。文禄4(1595)年旭の地で亡くなりました。
現在、旭警察署の南側に「木曽義昌公水葬跡石塔」があり、公園になっています。菩提寺は網戸東漸寺 で「東漸寺殿玉山徹公大居士」と号し、供養塔が建っています。その後木曽家は、義昌の子の義利に乱暴な振る舞いが多く、網戸の地を追放されました。
 嘉永5(1852)年国学者の野々口隆正が、義昌の旧跡を訪ねた時に詠んだのが、「信濃より いづる旭をしたいきて 東の国に あととどめけむ」という歌で、旭市の地名の由来ともいわれています。


辻内 刑部左衞門 つじうちぎょうぶざえもん(生没年不詳)

干潟八万石の生みの親

 湖(椿海)だったところを江戸時代に干拓し、現在は干潟八万石といわれる農業地域になった旭市。この工事の中心となった人が辻内刑部左衞門です。
 辻内は桑名藩(今の三重県桑名市)藩主松平定重の家臣で、江戸幕府の大工頭になった身分の高い人でした。白井治郎右衛門に協力して椿海の干拓に乗り出しましたが、資金の問題で計画は一時中止になります。あきらめきれなかった辻内は、江戸の高僧鉄牛の助けを借り、親戚である野田市郎右衛門と栗本源左衛門とともに再び干拓を始めました。
 寛文10(1670)年井戸野と仁玉間の排水路工事(現在の新川)が完成し、椿海の排水を始めました。徐々に水が排水され、延宝2(1674)年から椿新田の販売が開始されました。値段は1町歩あたり5両でした。元禄8(1695)年椿新田検地が行われ、18の村が誕生しました。この村の名前は琴田、大間手などいずれも現在の地名として残っています。現在は干潟八万石と呼ばれ、見事な耕地が広がっています。


大原 幽学 おおはらゆうがく(1797〜1858年)

世界初の農業協同組合をつくった農村指導者

 大原幽学は「先祖株組合」という世界初の協同組合をつくった農村指導者です。出身は尾張藩(現在の愛知県)といわれています。18歳のとき家を勘当され、各地を回りながら多くの経験と学問を学びました。その後独自の教えである「性学」を説くと、天保6(1835)年長部村の名主・遠藤伊兵衛に招かれ、この地を中心にさまざまな指導を行いました。
 最も画期的なものが、天保9(1838)年につくられた先祖株組合です。この組合は5両分の土地を一旭の地名に関係する人
株とする共有財産の制度で、互いに助け合うことができる協同組合の仕組みです。他にも生活の改善や農業技術の指導、耕地整理、住居の移転など、合理的で先進的な農業改革を実現しました。
 しかし嘉永5(1852)年、村を越えた農民の活動が怪しまれ、安政4(1857)年に有罪判決を受けた幽学は、5年に及ぶ訴訟の疲労と村の荒廃を嘆き、墓地で自害、62歳でその命を閉じました。幽学ゆかりの地は国指定の史跡となり、その業績が伝えられています。


海上 胤平 うなかみたねひら(1829〜1916年)

武術・歌人など多方面の活躍をした人

 海上胤平は武芸に優れ、裁判所役人、日本一流の歌人など、さまざまな面でその才能を発揮しました。
 文政12(1829)年、三川村犬林で生まれました。17歳で江戸に出て北辰一刀流などの剣道や槍術を学び、26歳で紀州藩(今の和歌山県)の剣術師範役になりました。その後明治2(1869)年水原県(今の新潟県の一部)の役人に、明治8(1875)年には山形県の地方裁判所判事補になるなど、役人としての才能を発揮しました。55歳で役人を辞め、東京に住み、自分の好きだった歌の道に生活の中心を移し、歌人、歌道評論家となりました。歌人としても超一流であり「明治現存三十六歌撰」に選ばれています。
 大正2(1913)年三川に碑が建てられました。題字は海軍大将東郷平八郎の書です。東郷平八郎は胤平の生き方に共鳴し、歌の指導を受けていました。大正5(1916)年に亡くなりました。三川小には、胤平の地元を題材にした歌「これやこの 三川の里の七曲 なほき道にはなどかつくらぬ」が飾られています。


濤川 惣助 なみかわそうすけ(1847〜1910年)

無線七宝の元祖・世界の濤川

 濤川惣助は明治時代に無線七宝を完成させ、その作品は迎賓館に飾られるなど、優れた作品を残した世界的にも有名な人です。
 弘化4(1847)年鶴巻村蛇園に生まれ、元治元(1864)年には江戸に出て陶器商を営みました。その時に七宝焼に大きな衝撃を受け、自分でも七宝焼を始めました。七宝焼には無線七宝と有線七宝があり、惣助が考え出した無線七宝は模様の輪郭の区切りに使う針金を途中で取って焼き上げる方法です。
 惣助の作品は外国向けの輸出用が多くあったことから、国内には残っている作品は少なく貴重です。作品は明治16(1883)年のアムステルダム万博で最優秀賞を受賞し、明治22(1889)年のパリ万博でも名誉大賞を受賞するなど世界的にも認めら、明治28(1895)年緑綬褒章を受章しました。惣助最高の作品は迎賓館「花鳥の間」にも飾られています。菊、桜、アジサイなどの花とヒバリ、鴨、鳩などの鳥を組み合わせて描いた30枚の七宝額絵で、国宝級の名品です。


穴澤 松五郎 あなざわまつごろう(1880〜1945年)

さつまいもといえばこの人

 穴澤松五郎は甘藷(サツマイモ)栽培の普及に努力し、この地域の農業を発展させました。
 明治13(1880)年鶴巻村見広に生まれ農業に従事した松五郎は、砂地でも栽培ができるサツマイモの栽培を行いました。次第に栽培が盛んになってきましたが、当時イモ苗を育てる事ができず、他所から買ってくる苗は品質も安定していませんでした。松五郎はイモ苗を自分たちで作ろうと思い立ち、困難の末ついに幌を使った「穴澤式甘藷苗床」を考え出し、イモ苗を作ることに成功しました。
 海上地域は松五郎のおかげでサツマイモ栽培がさらに盛んになり、でんぷん工場もたくさんできました。第二次世界大戦前後の厳しい食糧難の時代には、サツマイモは貴重な食料の一つとなりました。その後、松五郎は日本各地や中国河北省でもサツマイモ栽培指導を行いました。この功績により、昭和20(1945)年緑綬褒章を受章しました。また農林大臣から、日本農林業振興功労者として顕彰されました。


茂木 啓三郎 もぎけいざぶろう(1899〜1993年)

キッコーマン社長で醤油を海外に広めた人 

 茂木啓三郎は旭市出身で、醤油や飲み物で有名なキッコーマン株式会社社長に就任しました。地元を離れても旭市には多大な貢献をした人です。
 明治32(1899)年富浦村(中谷里)で生まれた啓三郎は、東京商科大学(現一橋大学)を卒業した後、大正15(1926)年野田醤油株式会社に入社。その後まもなく起こった労働争議を根気よく解決したことが認められ、茂木家の養子となりました。
 昭和37(1962)年社長に就任すると、醤油製造会社から総合食品会社へ多角化を進めました。昭和39(1964)年、社名を野田醤油から「キッコーマン」に変え、さらなる躍進を図りました。アメリカに醤油工場を建設するなど、日本の味を世界に広めた立役者となり、日本の産業経済界の指導者の一人としても活躍しました。
 生まれ故郷の旭のために旭市育英基金を創設したほか、鎌数工業団地への企業誘致にも力を尽くし、昭和62(1987)年3人目の旭市名誉市民となりました。


諸橋 芳夫 もろはしよしお(1919〜2000年)

旭中央病院発展の功労者

 諸橋芳夫は数々の困難を乗り越え、旭中央病院を全国有数の大病院に発展させました。
 大正8(1919)年、新潟県古志郡四郎丸村(現長岡市)に生まれ、東京帝国大学(現東京大学)医学部を卒業後、医師となりました。昭和27(1952)年、千葉県副知事や旭町町長などの懇願を受けて、翌年旭中央病院初代院長に就任。当初は内科、外科、産婦人科、小児科の4科で、医師8人、全職員45人での開院でした。戦後復興の最中、地元の反対運動や金策の問題、2度の火災や道路問題など、数々の難題が待ち受けていましたが、強い責任感と使命感、情熱で全国有数の大病院にしました。
 「すべては患者のために」を信念とし「いつでも、早く、正しく、安く、親切な治療」の実施に努めました。救急医療のための設備を整え、医師や看護師を近くに住まわせました。院長以外にも全国自治体病院協議会会長、日本病院会会長などを歴任。昭和59(1984)年旭市名誉市民になりました。