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第4回 海に臨む縄文時代の遺跡 ~桜井平遺跡~
眼下に海がせまる台地で狩猟採集をしていた縄文時代の遺跡を紹介します。
「桜井平遺跡」
●今から7,500年ほど前(注1)の縄文時代、北総台地の眼下には海が広がっていました(注2)。
注1 縄文時代を6期(草創、早、前、中、後、晩)に分けた「早期」にあたります。
注2 1万9千年前から7千年前頃、極地の氷床が解け、海水面が上昇しました。縄文海進とも有楽町海進とも言われています。
立地と生活痕跡
●溝原の桜井平遺跡からは、たくさんの土器や石器、活動の跡がみつかり、生活の様相の一端を垣間見ることができます。
遺跡の位置(赤い丸印 水色部分は想定される海水面と谷津)
●台地縁辺の斜面では生活残滓が捨てられた貝層が見つかりました。桜井平遺跡を残した縄文人は、台地の下に降り、ハマグリやカキなどを採集していたことが、貝層を調べることでわかりました。また、シカやイノシシの骨が出土しているほか、サルやクジラ類の骨も見つかっています。
遺跡の立地(南側の水田を臨む 赤い丸印は斜面貝層)
貝と一緒に土器や石器、獣骨が出土します。
●この頃、縄文人は「炉穴」とよばれる楕円形に掘りくぼめた穴の片側で火を焚いて調理する施設を作って生活していました。穴に土砂がたまったり、壊れたりするために、頻繁に作りかえられたようです。
単体の炉穴(穴の奥に火を焚いて赤く焼けた跡が残っています)
重なり合った炉穴(何度も作り変えられています)
●一方、竪穴を掘りくぼめた住居は、炉穴の数に比べるとあまり見つかっていません。これらは、形が整わず、柱は位置が偏っていたり、浅いことから、簡素なつくりであったと推定されます。
均整のとれていない竪穴
使っていた道具
●彼らが使っていた土器は、「鵜ヶ島台式土器」と呼ばれています。神奈川県三浦市鵜ヶ島台遺跡で出土した土器を標識としています。「縄文」土器ですが、縄目の文様は全くなく、背中に肋(でこぼこ)のある貝で撫でたり、細い竹を突いたり、押し引いたりして、幾何学的な文様を作っています。
鵜ヶ島台式土器1
同上(口縁部付近)拡大
同上(胴部)拡大
鵜ヶ島台式土器2
同上拡大
●狩猟に使用した石鏃がたくさん出土しました。未成品も多いことから、ここで石鏃を作っていたと考えられます。
石鏃
●礫の一部を打ち掻いたり、磨いたりして刃を作り出した礫斧とよばれる石器も多く出土しました。
礫斧
●炉穴を頻繁に作り変えていたこと、頑丈な住居を作らなかったことから、活動の場を頻繁に移していた生活を送っていたと考えられます。
●アルカリ性の貝は、有機質を腐りにくくします。おかげで、ほんの一部ですが、何を食べていたかがわかりました。
●眼下に広がる海は、その後どんどん引いていきます。現在の袋溜池付近でせき止められた海水は、だんだん淡水化し、「椿の海」とよばれる湖となっていきます。
●桜井平遺跡は、干潟工業団地の造成に先立ち、1990年9月から1992年3月にかけて発掘調査されました。縄文時代のほか、旧石器時代の石器、弥生時代の住居跡、古墳なども見つかっています。
参考文献
(財)千葉県文化財センター 1998年発行 『干潟工業団地埋蔵文化財調査』